山門
小早川隆景公の居城として名島(福岡市東区)に築かれた名島城の搦手門を、後の筑前領主として入った黒田長政公が、名島城を解体し、福岡城へ移転する際に宗生寺に移築したものです。
福岡城の名島門、崇福寺の唐門、そして宗生寺の搦手門が名島城の数少ない遺構として残るのみで、貴重な建造物です。
小早川隆景公が三原にて築いた新高山城の門に酷似していると言われています(現在の曹洞宗宗光寺の山門)。
一本のノグルミ(化香樹)で造られていると伝えられています。
墓所
小早川隆景公のお墓
小早川隆景公の墓 宝筐印塔 高さ8尺7寸
掛け軸
左:宗生寺蔵 隆景公と家臣井上春忠
寛政3年6月12日 加藤一純の讚あり
右:米山寺蔵のレプリカ
築城450年事業の際三原市より寄贈
小早川隆景は、豊臣五大老の一人、正三位中納言。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。毛利元就の三男で、同母兄に毛利隆元・吉川元春がおり、元春と共に毛利両川として毛利氏の発展に尽力しました。
1587年(天正15年)伊予から筑前へ移封となり、名島城を拠点に、筑前・筑後・肥前並びに伊予・備後三原(広島県)等八十余万石を領する大名となりました。
筑前を拠点とする15年の間に、宗生寺四世 桂翁栄昌禅師に深く帰依し、1595年(慶長2年)6月12日三原城にて没。
生前の遺言により、小早川家代々の菩提寺である広島県三原市の米山寺だけでなく、宗生寺にも供奉4人と共に葬られています。
法号は『黄梅院殿泰雲紹閑大居士』。お墓は宝筐印塔で高さ8尺7寸、米山寺のものと同型です。
供奉四人のお墓は五輪塔で、それぞれ乾忠宗哲信士・融峯功祝信士・苗家木秀信士・徹叟本通信士という法名がついています。
許斐三河守氏任のお墓
村山田(現宗像市大字村山田)に居住し数百丁を領した領主。宗像家唯一の分家であり、宗像家臣団における重鎮でした。宗像家に世継ぎがいない時は、許斐家より本家の世継ぎを出し、また許斐家に世継ぎのいない時は、宗像家から世継ぎを出すという間柄でありました。
しかし側室の子氏貞が正室の親子を殺害して本家を継いだことを心良く思わず、本家を正統に帰すべく陰謀を企てたが、事は事前に氏貞に知られていたため、逆に攻められて八並吉原(現福津市八並)にて戦った。奮戦したが戦に負け、1560年(永禄3年)10月10日戦死。『高林院宗仙大居士』と号し宗生寺に葬られました。他に氏備夫妻・氏明夫妻・氏監・氏利夫妻等許斐一族8人のお墓があります。
宗像氏貞公室(奥方)のお墓
氏貞公の死後、太閤秀吉により領地を没収された氏貞公の室と3人の姫(長女太姫・次女乙姫・三女細姫)を、宗生寺四世 桂翁栄昌禅師は宗生寺門前の端泉院に迎えました。
秀吉が朝鮮出兵の時に、長女太姫は肥前名護屋城に召し出され、『お宗の方』として寵愛を受けたが、秀吉が大坂に引き揚げる際に暇を出された。その後毛利の家臣草刈太郎左衛門に嫁いだ後、まもなく没した。三女細姫が姉の後に嫁ぎ、次女乙姫も毛利輝元の家臣市川与七郎の妻となる。氏貞公の室は、端泉院にひとりで尼僧のごとき生涯を送ったとされ、没後は宗生寺に葬られています。
―『秋は来ぬ、露もたもとにおきそひぬ、など朽ち果てぬ我が身ならん』―
―『秋が来て、涙が袖にしみるほどつらいのに、どうして私はこのまま朽ち果ててしまわないのだろうか』―
と句が残されている。